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鼕の歴史『松江の鼕』発刊
 (松江市鼕行列保存会創立四十周年記念誌) 



 ◇鼕の歴史◇
■鼕行列・宮行列史
【松江の鼕】
■はじめに
■左義長
■松江藩の左義長
■漁村の左義長
■農村の左義長
■町方の鼕叩き
■鼕行列の始まり
■現在の鼕行列
■鼕の叩き方
【松江の宮練り】
■歳徳神どんど行事
■歳徳宮について
■宮行列について
◆編集後記


鼕行列のはじまり


 松江の鼕行列は、松江藩主第五代松平宣維の後妻として、享保九年(1724)伏見宮邦良親王のご息女岩姫が降下された時、松江の町人がきそって大鼕を作っておなぐさめしたのが始まりとの説がある。

しかし鼕の起こりについては、歳徳神を祀る行事と左義長行事が元となっているので、或いは、京の宮家のお姫様が僻遠(へきえん)の松江にご降下になったことのお祝いとお慰めのため各町毎に鼕を引き廻したことも考えられるが、行列としてまとまったものかは明かでない。

 鼕行列が本格的に行われた始まりは、大正四年(1915)大正天皇御即位の御大典が行われたときである。

それまで、大鼕を所持していたのは、横濱町と石橋町三区だけであった。

なぜこの二町だけに直径六尺もあるものを所有していたかは、当時を知る古老もおられないので知る由もないが、両町はそれぞれ松江の南と北のはずれで、松江が誕生した頃はいわば農村的な性格が強く、歳神の宮も存在したことだし、正月の左義長行事が盛んに行われたのではあるまいか。

両町の大鼕には、黒と朱漆で巴紋がつけてあり、何か祭礼儀式的な匂いを感ずるのである。

 さて、大正四年の御大典が秋季に行われる事は既に春に判明していたので、松江市民は奉祝行事に何を行うべきか、各町内や、時には町代表が市役所に集合して協議が行われた。
その結果、奉祝行事の一環として、鼕行列や宮行列を行い、全町あげて参加することになった。

 ところが、鼕の大きさは、前記両町以外は小型のものよりなかった。
そこでこの際というので各町は極秘の内に大型のものを作る準備を始めた。
町によると、牛革を探しに兵庫県辺りまで出かけるところもあった。
前記両町も手持ちの大鼕以外に、新たにより大きいものも作った。

従って大鼕五個も所持する町も出てきた。少ない町でも三個位は用意した。
鼕は、桐材で作った筒状の枠に上下に牛の皮をはり鼓の様に縄で絞めて仕上げるが、鼕に張る皮は、安来市の大塚や飯梨辺りで制作されている。

鼕台は、宮造りの屋根をつけ、各町名を入れた提燈をかかげ、下に車を取り付け引き廻すようにした屋台で、鼕宮または鼕台と呼ばれている。

 さて、いよいよ秋となり鼕行列が行われたが、それは十一月十五日であった。
 参加した鼕は三十五か町にも及び、行列の先払いの神官から、猿田彦命、天宇受女命に扮する者、神楽、獅子舞等も加わり、鼕宮の飾り付けはかつて無い絢爛豪華なものであった


各町内それぞれ揃いの法被を付け、子供たちは、日の丸の小旗を持ってかけ声にあわせて鼕を引き、鼕の後には酒保の車が続いた。

一町内でも数十メートルになる状況であるから、行列の先頭が既に橋南の雑賀小学校に到着しているのに、しんがりはまだ、北堀小学校を出発していないという始末であった。
打ち鳴らす鼕の響きで松江の空全体が雷鳴の如く鳴り轟いたもので、病人などはあらかじめ田舎の親類へ疎開させるといった騒ぎもあった。

 なお、鼕叩きには、横笛が五〜六人、チャングワラ(どうびょうし)が三人位の伴奏がついて、リズムを一層効果的にした。

 鼕行列が終わって、それぞれ各町内に引き上げる時は夜になった。そこで、鼕宮のまわりに飾ってあった提燈に日を灯し、綱を引く子供たちには手に手に提燈をかざし、華やかな行列となり、賑やかに囃して帰ったものであった。

 その後、鼕行列は、昭和三年(1928)の御大典をはじめ、国家的な慶事や松江市の奉祝行事の度に行われた。

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